塚原第1号墳・山口堰堤第3号墳
2024/2/7
  所在地 瀬戸市若宮町
塚原第1号墳の説明版 <瀬戸市>
 塚原古墳群は、瀬戸市南部の幡山地域東部、標高150m前後の丘陵に立地しています。最も北に位置する第1号墳から最も南にある第8号墳までの350mの範囲に12基の古墳が見つかっています。

 塚原第1号墳は丘陵頂部に造られていました。昭和41年に石室の発掘調査が行われ、市内でも有数の大きさの横穴式石室を持つ円墳であることがわかりました。

 平成18年に、道路工事に先だって発掘調査が行われました。直径18m、高さ2.3m、墳丘の中央には、全長7.3m、最大幅2.3m、高さ1.7mの石室が造られています。また、天井石であったと思われる石も周囲から見つかっています。 石室からは鉄刀、須恵器の蓋坏、高坏などが出土しました、また、墳丘南側から須恵器の器台、脚付坩などが出土しています。須恵器の年代は6世紀後半で、塚原古墳群の中でも最も早い段階の古墳と推定出来ます。また丘陵の最も高い所に造られたことからも、第1号墳は特別な古墳と考えられます。 

古墳の発掘調査の後に石室を解体し、この場所に運んで復元しました。墳丘の上からも石室を観察することができます。また天井石の展示も行っています。
山口堰堤第3号墳の説明版 <瀬戸市>
 山口堰堤第3号墳は、全長4.9mの横穴式石室を主体部とする古墳です。古墳の形は、直径15mの円墳です。横穴式石室は、南側に入口があり、羨道を通って、その奥に葬られる人を安置する部屋(玄室)があります。玄室入口の左右には大きな立柱石を置いて疑似的な両袖式の石室形態をとっています。

 左右側壁が奥壁に向かって著しくすぼまる形の玄室は、平面形が胴張りの長方形で、天井石や玄室奥壁は残っていませんが、玄室・羨道の左右の側壁は、4〜5個以上の石を積み上げている様子を現在も見ることが出来ます。出土遺物などから塚原1号墳よりやや後の6世紀末に築かれたと考えられます。
塚原古墳群<瀬戸ペディア>
(瀬戸市若宮町2丁目)
 瀬戸市内には、120基余の古墳があるが、その半数近くが南部を流れる矢田川(山口川)流域に分布する。中でも山口谷奥の赤津川と海上川との合流地点の右岸(北側)丘陵、瀬戸市若宮町2丁目地内の標高150m前後の稜線を中心に多くの古墳が分布する。塚原古墳群(12基)・高塚山古墳群(3基)・山口堰堤古墳群(3基)が集中し、左岸丘陵地にも川原山古墳など6基が分布する。
 昭和30年代初頭、地元の幡山東小学校の郷土史学習の一端として遺跡調査が行われ、塚原T〜7号古墳・高塚山1〜3号古墳の所在が明らかにされた。さらに昭和41年には塚原1・4・6・7号墳、山口堰堤3号墳の主体部を中心とする発掘調査が行われている。
 平成10年、都市計画道路瀬戸環状東部線(国道248号バイパス)が決定されたが、事業区域内に塚原古墳群が所在する事が明らかとなった。平成12年に瀬戸市埋蔵文化財センターによって試掘調査、同17年度範囲確認調査、同18年度に塚原1・4・11号墳の発掘調査が実施された。
 最大級の横穴式石室をもつ第1号墳は全長7.3m、幅2.3m、高さ1.7mの規模で出土した須恵器から6世紀後半代と比定された。この古墳は歴史広場に移築保存された。多くの須恵器や金属製品が出土しているが、古墳の規模・形式などからも、4号墳・7号墳は6世紀末から7世紀前葉、6号墳は7世紀中葉、11号墳は7世紀後葉に築造された円墳であった。
(参考文献 瀬戸市教職員考土サークル「考土」、「塚原古墳群」)
 <塚原第1号墳歴史広場入口> <トンネルの東口南側の山口堰堤3号墳、北側の塚原1号墳>
<塚原1号墳の説明板(クリックで拡大)> <移築された塚原1号墳石室(西方向を見る)>
<移築された塚原1号墳石室(東方向を見る)> <天井石?(柵で囲った複数の石があるが説明が無い)>
<山口堰堤第3号墳の説明板(クリックで拡大)> <山口堰堤3号墳(墳丘も石室も草に覆われて分かり難い)>
<メ モ>
・移築された塚原1号墳と山口堰堤3号墳は、国道248号バイパスの東側のり面をコンクリートの側壁で仕切った場所にある。
・塚原1号墳は、墳丘の上部は失われているがしっかりした石組みの大きな石室をもつ大きな円墳だったようだ。被葬者は、この地域でかなりの力を持った人物だったことが想像できる。
塚原1号墳は、歴史広場として整備され柵で囲われていて除草もされているが、訪れる人はいないようだ。市道を挟んで南側にある山口堰堤3号墳の方は、一面に背の高い草が茂っていて円墳の形もわからず近づかなければ石室も見えない状態だった。
歴史遺産として文化財の保護は重要だがその難しさも感じた。
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