大津城址
2022/3/24
       所在地 瀬戸市今林町
大津城址の説明<瀬戸ペディア(瀬戸市HP)>
 大津城跡は、別名「今林城」とも呼ばれ、山口の本泉寺西約500メートルほどの今林町に在る。「山口村古記」に「城構えは東西一町(丁)、南北二町(丁)、二重堀をめぐらし、午の方に大手門あり城主は後宇多天皇の末孫大津八郎左衛門」と載せている。別の考証では、近江の大津奉行職を代々務めた家系の末裔である大津氏が弘治元年(1555)にこの地に築城、元亀・天正年間の頃(16世紀末)に廃城なったと伝えられている。
 現在、城跡の一角である今林町内児童遊園に末孫の大津氏によって伝えられた由緒などを記載した碑文が建てられている。部分的な発掘調査で廃城前の時期の陶磁器が出土伝承を裏付けた。
 大津城由緒碑

 
大津城主八郎右エ門重俊は、人皇第59代宇田天皇の末孫と有り、
 古事由緒記に山口本泉寺西、500mのところ大津城有り大津鈴右エ門、八郎右エ門居城せり、城構は一名掻上げ城といい東西一町南北二町にして二重堀を巡らし、午の方に大手門、未の方に門口有りと記されている。

 重俊は宇多天皇第九皇子敦実親王を得、三代雅信の時親籍に下り、佐々木九代秀義の四男高綱とつづき十八代は、三代将軍足利義満の弟満高が継ぎ満高の二男高郷が近江駒井に城を築き駒井城主と成り姓も駒井と改める。駒井四代実政の二男定清の時江州十六奉行を拝命、

 三女の男清宗は大津の奉行職を任せられ、兼俊、頼長と奉行職を務めた功に依り台名にて大津姓を拝領、以後奉行職を務めるも故あり弘治元年近江を離れ当地に赴き、大津城を築くも元亀・天正の頃廃城となる
B <今林町バス停> C <今林町集落>
D <児童遊園地> D <大津氏祖宗碑・由緒碑
<メ モ>
今林町内には、大津氏の子孫なのか大津姓の広い屋敷の家が多く表札もあちこちに見られる
・城の面影は全くなく、町内の児童遊園地に「大津氏祖宗碑」と「由緒碑」」が立っている。
・近江の大津奉行を務めていた一族の大津鈴右衛門、八郎右衛門重俊が移り住んだ居城という。
・東西約100m南北約200mの規模で、土を盛った土地に館が建ち二重堀の南側に大手門があり南南西側にも門があったようだ。弘治元年(1555)に築かれたが元亀・天正年間(1570-1592)に廃城となり存在した期間は短い。
・元亀、天正年間は武田信玄の侵攻や長久手の戦いあった時代で、関わりがあったのかもしれない。
・由緒碑には、大津氏伝とされる宇田天皇〜大津城主八郎右エ門重俊」に至る家系が簡単に書かれているが、調べてみると様々な考証があり血筋を遡るのは容易ではない…

宇田天皇(867-931)第九皇子の敦実親王の三代目雅信が臣籍に下って源姓を賜る。
雅信の子が近江佐々木の庄領主として佐々木姓となり、その後も六角、駒井、大津姓を名乗って家系を継いできたということのようだ。
九代目秀義の四男高綱の後は、秀義の嫡男定綱の家系で血筋を受け継いで十八代(六角満高)へと続く。しかし、「満高は三代将軍足利義満の弟」や「義満の二男高郷」という辺りは所説あって、佐々木姓かどのように続いているのか分かりにくい。
駒井清宗が初代奉行になったは天文2年(1534年)で、尾張大津城の築城はその21年後である。大津兼俊、頼長が奉行を務めている時期に大津鈴右衛門、八郎右衛門重俊が何故か地方になる当地へ赴いたということらしい。
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