物見山城址
2024/4/29
  
海上の森自然観察インフォメーション<愛知県HP
 尾張、三河の眺望地で、七つの城が見えたことから「七城ヶ峰」と呼ばれ、戦国時代には武田勢の偵察地として利用されたと言われている。
 現在は、東側の三河(豊田)方面は樹木により眺望はできないが、西側は尾張平野一体(名古屋駅ツインタワー、名古屋ドーム等)が眺望できる。遠くには養老山地も望める。足下には海上の里の里山サテライトが見える。
 ※ 「七城ヶ峰」の城は、犬山城、小牧山城、岐阜城、墨俣城、清州城、岩崎城、拳母城とされているが南方向は樹木が遮っていて見ることが出来ないし、開けた北西方向も数十キロ先になり肉眼で城を見るのはかなり難しい。この砦からみる眺めの良さを形容した言葉と考えた方が良さそうだ。
物見山城址の説明<瀬戸ペディア(瀬戸市のHP)>
所在地 瀬戸市海上町
 江戸時代の旧山口村絵図には枝郷海上(かいしょ)集落の南東山上に「山田佐右衛門物見ヶ岩」の記載がある。地誌『尾張徇行記』には甲斐武田信玄が築いた砦跡の言い伝えが記載されている。海抜327メートルの物見山の山頂は尾張・三河を望む位置であるが、それ以上の城跡の痕跡は無い。(以上参考文献 『日本城郭全集』・『日本城郭大系』・『瀬戸古城史談』・『瀬戸市史・村絵図編』他)
案内表示 <海上の森駐車場> <物見山林道分岐>
物見山近道(右折後400m先に林道又は山道経由の分岐有り)
22 <広久手線分岐>
左折(殆ど林道経由で山頂へ)、右折(300m先から山道経由で山頂へ
復路は林道を下ってきて鋭角に右折して(海上の里)へ
 <22と23の中間にある山道分岐(赤いリボンとペンキ表示あり)>
正式な案内表示は無いが駐車場から最短距離で山頂に至る
<山道と登山道出合>
100m程で登山道に出合い山頂方向へ左折
(この山道は海上集落と広幡町四ツ屋を結ぶ昔からの道と思われる)
<「聖徳太子の古墳」の表示がある巨石>
山頂の手前に巨石が不自然に集まっている所がある
聖徳太子の古墳は信じ難いが、古墳の石室の残骸の可能性はある
<物見山山頂(物見山城址)>
平らに削られた広場になっていて、南東隅に石で囲った区域がある
土塁や堀切などの城としての遺構は無いという
<石で囲われた区域>
物見櫓を建てるにしては規模が小さ過ぎる
後世に建てられたお堂などの宗教施設の基壇らしい
<山頂にある基壇と思われる石組の南側>
斜面に石組をして山頂の平地を広げている
<西から北西方向の眺望(2024/5/8撮影>
清須市、小牧市、犬山市、大垣市、岐阜市など濃尾平野全域を見渡せる
濃尾平野の軍勢の動きを監視するには最高の場所と言えそうだ
<山頂の東側にある平地>
山頂の東側と西側にも尾根を平らにした思われる狭い平地がある
見張り要員としての兵士の小屋が立っていた可能性はある
<海上の里>
復路は<案内表示22>まで戻って鋭角に右折、海上の里へ
案内表示から右手方向100m程の所に陶龍寺がある
<陶龍寺案内の看板>…以下のような記述あり
武田信玄公の隠された墓 <武田信玄、側室 茜、家臣共 55名>
海上の森 尾張城又を拾山城、織田信長により落城、焼野原となる
戦死者 若干名 陶龍寺にて供養
旧山口村 山田庄   現在 本家 山田 豪 
<陶龍寺>
道路を挟んで案内板の反対側の民家風の建物が陶龍寺
留守居の女性の話ではここが墓の場所ということらしい
入口を入った左手に仏壇が置かれている
(看板前から四ツ屋へ通じていた道は、治水工事により300m先で消滅)
<メ モ>
・ 物見山山頂へ通じる道は、登山道とは別に林道を辿る複数の遊歩道が整備されている。以前は、海上の里の陶龍寺前から山道を辿って登山道に合流して山頂へ至るルートもあったが現在は通行不可となっている。駐車場から登るルートとしては、今回利用した林道広久手線経由で途中から四ツ屋へ通じていた山道へ入り登山道に合流するのが最短距離である。
・ 国土地理院の今昔マップを見ると、1890年頃の地図に海上の里の陶龍寺辺りから広幡町四ツ屋へ通じる山道が記されている。この道は江戸時代からあったと思われるが現在通行できるのは、今回通った林道広久手線と登山道出合の区間だけのようだ。
・物見山の標高はそれ程高くないが濃尾平野を一望できる位置にある。東美濃から尾張・三河への進出を狙っていた武田氏が偵察隊を送って尾張の動向を監視する場所としていた可能性は十分考えられる。しかし、砦が存在したかどうかも不明で分かっているのは言い伝えや後世の記録のみで推測の域を出ないようだ。
・ 武田信玄にまつわる墓や伝承は、各地に存在し陶龍寺に伝わる話もその一つと言える。信玄は、遠江や三河を攻めている途中に病死し3年間その死が隠されていたという。病を得て甲斐へ引き返す途上で亡くなったされるので街道沿いにある福田寺(設楽町)や長岳寺(阿智村)にも墓がある。信仰心が厚かったことやその活躍ぶりで後世にも人気が高かったことから各地に墓が造られ多くの伝説を生み出した思われる。
 陶龍寺の伝承についての個人的は思いとしては、信玄人気にあやかって後世に生み出されたものと考えたい。信玄は甲斐へ引返す途上で病死しているのに、なぜ側室や多くの家臣が一緒に葬られているのだろうか? この地の城が信長により落城し焼野原となったというのも信玄の死から数年後のことになり、長篠合戦で武田氏が負けて形勢不利となり砦に残っていた偵察隊が寝返った地元の協力者に殺害されたというとはあったかもしれない。
・古墳については、海上の里西方の丘陵や物見山南西の丘陵に数多く見られる。それらの丘陵より標高が高い物見山の尾根上に有力者の古墳があったことは十分考えられる。しかし、古墳の土盛も石室も確認できず花崗岩の巨石が散らばっている状態だけなので素直には認め難い。物見山自体が花崗岩で出来ているので地表面に露出していた岩が風化して崩れた可能性もある。
・「物見山」…何となく意味ありげな名の山で過去にも数回訪れたり通過したりことはある。今回城跡を訪ねるという目標を持って丁寧に歩いた結果、意味ありげな山名にふさわしく様々な疑問を提供してくれた。信玄伝説、古墳、山頂の石組、古の道など、現時点で明確な証拠が見つかっていないので様々な説がありネット上でも話題に事欠かない。謎が多いだけに色々調べたり考えたりするきっかけを提供してくれる歴史ロマンに満ちた山と言って良さそうだ
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