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城跡の説明版 <平成23年8月 菱野文化財調査保存会> |
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この城は当地方屈指の古城で天然の要害を成していたが、度々の洪水に遭い、殊に明和4年(1767)猿投山崩れの大洪水で土砂に埋まりほぼ現状に近い地形になった。古い資料に依れば東西三十九間、南北五十三間である。城址は、この説明板の左手で昭和三十年代の土地改良工事までは竹藪があり、古井戸・周囲の土塁・堀跡を残していた。この説明板の下の水路はその堀跡を利用した唯一の遺構である。 |
平安末期の承暦3年(1079)美濃郡上にあった清和源氏の山田一族らは青野ヶ原に戦ったが利あらず、残った一族は尾張北東部に進入しそれぞれ邸を構築した。これが菱野城の始まりである。下って源頼朝の時代文治元年(1185)に至り同族小幡城主山田重忠は山田の庄の長と成り、重忠の曾孫たる山田三郎泰親は上菱野(山口)その弟山田四郎親氏は下菱野の地頭職に任じられこの地に住した。 |
その後室町時代に移り田幡城(名古屋市北区)に在った林氏が勢力を伸ばし、林弥助狩宿城に住するに及び菱野まで領し、永正元年〜14年(1504〜17)林次郎左衛門惟光、永禄(1558〜)の頃は林三郎兵衛正俊が居城したとの記録がある。林三郎兵衛正俊は織田家に仕え、永禄3年(1560)桶狭間の前哨戦となる品野城攻略に参加した後、品野の地に寺を建立し戦没者の菩提を弔いこの地で没している。現品野落合町久雲寺にその宝篋印塔と位牌が祀られている。 |
尚、菱野西光寺に伊勢湾台風まで在った山門は菱野城大手門を移築したものとの言い伝えがある。 |
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菱野城址の説明<瀬戸ペディア(瀬戸市のHP)> |
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山口川(矢田川)の高座橋のやや下流左岸(南側)には、羽根屋敷と呼ばれる小高い台地状の土地がある。ここには戦国時代に林次郎左衛門が居城したとされる菱野城跡である。林次郎左衛門は永正十四年(1517)の菱野熊野社の棟札にもその名が残り、田幡(名古屋市北区)から「狩宿・井田(尾張旭市)周辺まで勢力を伸ばして織田家の重臣も輩出したされる。 |
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また別の考証では、鎌倉時代初頭に山田荘の地頭職に補された山田重忠がこの地域を支配し、その後その係累の山田泰親・親氏兄弟が居城、城構えは東西三十九間、南北五十三間、土居・堀跡などの一部を残す現在地がそれという。山田泰親はその後上菱野に山口城を築造している。 |
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江戸時代の村絵図の西島城徳の地に「城主石碑」が描かれている。この石碑は現在北山墓苑に移築され、自然石に「古今常徳居士」と刻まれ、林次郎左衛門のこととされている。 |
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