今村城址・本地城址
2022/5/4
所在地   「今村城址」 瀬戸市共栄通、本地城址:瀬戸市西本地町1丁目
八王子神社由緒(一部)
 当社の剏祀年代は不明なるも、文明五年癸巳九月五日(西暦1473)松原下総守源廣長公本殿修造の棟札が残されて居り、之以前より当地に祀られていた古社である。
 尾州府志曰く「八王子社今村に在り。五男三女神を祀り、天照大神、素戔嗚尊を配享す」と記されたり。明治四十年十月廿六日に神饌幣帛料供進神社に列せられた。
 曾て、此の地を治められた廣長公は、崇敬の念殊の他篤く「和を以って貴しと為す」と云う聖徳太子の精神を信条として、常に神を怖れ仏を敬い領民の豊かに成る事を主眼に善政を行った為、住民から慕われ国は繁栄したのである。
 廣長公は当社の修造を始め、赤津の万徳寺の境内を寄贈すると共に太子堂を建立された事は敬神崇粗の現れでもある。
 廣長公を偲び、当社の境内に「松原社」を建立して末永く後の世に迄も御遺徳を称え奉るべく命日に当たる風薫る5月に慰霊祭を毎年執行っている。     八王子神社奉賛会
今村城址<瀬戸ペディア(瀬戸市のHP)

 旧今村は現在の瀬戸市域の西端にある。江戸時代の『張州雑志』には「此村、古へ横山ト云、後改之」とあり、古くは「横山」と呼称したようである。今村は4区に別れ、瀬戸川左岸に寺山嶋と市場嶋でここが本郷、北の右岸側が川西島・北脇島が在って名古屋から飯田に結ぶ信州飯田街道が通る。
 今村城(松原城ともいう)は市場嶋に在り、氏神八王子社の西の池は当時の堀跡である。周囲には城屋敷・廓屋敷・出口・矢下などの地名を残している文明年間の頃の城主は松原廣長で、城は東西六十間、南北六十間、四方一重堀、南面のみ二重堀であったとされる。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。松原氏は廣長の父吉之丞の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、飽津(赤津)へ移った。廣長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、品野城の長江(永井)民部との戦いで敗れた

本地城址<瀬戸ペディア(瀬戸市のHP)
 旧本地村は現瀬戸市域の南西端に位置する。江戸時代の村絵図には氏神八幡社の南に古城跡が描かれ、「古城跡と申傳候場所屋敷畑等ニ相成、城主相分リ不申候」と記載される。『尾張志』には、城構えは東西三十五間、南北二十四間ばかりあり、東・北二方に堀の址いささか存れり、城主は松原平内なりとある。
 松原平内については、今村城主松原廣長の叔父であり、文明十四年(1482)の安戸坂の戦いで廣長と共に討ち死にしたと地元では伝えられている。
 現在は東側の堀部分が県道駒前線となり、堀や土塁などを地上から確認することはできないが、城跡西隣の崖下に「松原平内公本地城跡」の碑が建っている。
B <八王子神社・今村城址> B <神社境内の配置図>
B <松原公社殿・廣長公を称える碑> C<お鶴井戸
C <松原廣長公城跡碑と水堀跡(←旧蹟お堀の跡碑)> B <拝殿東の「城屋敷町」表示>
D <松原平内公本地城址碑>
<メ モ>
・玉垣に囲まれた境内の東の電柱に「城屋敷町」の町名札が掲げられているが、地図を確認すると境内は「共栄通」に含まれている。南側の城屋敷町にある郷倉やトイレは神社が管理していて町の境界が神社境内を通っているようだ。
・今村城は15世紀中頃に三河国から赤津へ移住した松原吉之丞一学の長子廣長の居城で、15世紀末の品野・桑下城主長江利景との争いに敗れ廣長は自刃した。城は無くなり一族は赤津に逃れ農民として暮らしたと伝えられる。
・由緒によれば、聖徳太子に帰依していた廣長公は八王子神社を修造したり領民のために善政を行ったりするなど住民に慕われる領主だったようだ。境内に遺徳を伝える松原公を祀った社殿や碑があり、今でも毎年5月に慰霊祭を行っているという。
・本地城も同族の松原平内(廣長の叔父)の居城で、廣長と共に自刃し今村城同様に城が存在した期間は短かったようだ。
・赤津地区や本地地区に松原姓が多いのも、子孫が明治維新の苗字許可令によって名乗るようになったことによると思われる。
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